今日、希望のタネを蒔きました

療育現場の所長日記です。

「できること」は経験の量に比例して増加する。

今回の九州地方の地震に際し、被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。

自然に対して、人間の無力さを改めて感じるとともに、大学時代の先輩が卒業前に悟ったと教えてくれた「人間は生きているのではなく、生かされている」という言葉を思い出しました。

最近でこそ、「もしかしたら」と地震への危機感を意識するようになりましたが、私は生まれてから20年ほどは、地震というのはどこか遠い国の話だと思っていたような気がします。

もの心ついてから記憶に残っているのは、「三陸はるか沖地震」。震源地や災害の範囲を考慮してこの名称が用いられたそうですが、悲惨な状況に対して、あまりにきれいな名前だ!という非難が相次いだとか…。

次に記憶に新しいのは「阪神淡路大震災」。

この時は、眠っていた私を起こすのに十分な揺れを体験しました。先述の三陸はるか沖地震と時期が近く、東北の余震だ!日本列島が沈む!と本気で感じたことを覚えています。

次は「東日本大震災」。現在も津波原発事故の爪痕が大きく残っています。

この間、政府の対応が少しずつ、変わってきたことに気づきました。名称のつけ方への熟慮を始め、阪神淡路大震災の時、首相が現地に着くよりスイスの警察犬が先に着いたとか着かないとかいう話がありましたが、今回は翌日には総理現地入りの予定が組まれていました。原発にも今までより早く調査が入っています。

何でもかんでも受け入れていたボランティアも規制し、支援の妨げにならないように配慮されついます。

ひと昔前に、賛否両論があった「心のケア」専門家の派遣も、現時点では要請されていません。

今回の地震に関する支援も、被災者の皆様にとってはもちろん十分ではないし、新たな課題も生まれてくるでしょう。それでも、経験を重ねる度に、支援のあり方は変化してきているように思えます。

 

支援には、相手の「予期しない」状況に対するニーズの把握が必要です。そして「思いもしない不幸」に寄り添う覚悟が求められます。もちろん、慣れるほど災害が続くのは決して望ましくはありませんが、それでもやはり経験を重ねないと「できる」ようにはならないという気がします。

もちろん、それは災害支援に限らず…です。